脳内独り言→一人で語りに入る
2009年12月19日 日常誰彼かまわず心配するのはやめました。
本当に大切に思う数少ない人だけにしよう。
でも、自分がいっぱいいっぱいなのに、大切な人が辛そうだと放っておけないのは、単なる性分なのだろうか。
その辺が制御できないのはどうしたらいいんだろう。
****
メールとかSNSに疲れました。
伝えたいことが何も伝わらないし、タイムラグのありすぎる文字のやりとりなんて
感情の伴わない事務的な連絡くらいしか役に立たないんじゃないか?
ダイレクトにかつリアルタイムに話ができていれば、スルーされたくない言葉をスルーされ(そうになっ)てもそこで訊くことができるけれど
単なる文字で問い掛けたって、意図的じゃなくたってスルーされやすい。
スルーされる、というと語弊があるな、、回答しわすれがち、といったほうがマシかな。
被害妄想なのか、気分が浮かないときは意図的でないにしても「スルーされた!」と感じてしまうことが多いのだ。それほどたいした事柄でなかったとしても。
・・メールの文字だけのやりとりは、たとえば相手が電車内だったり運転中だとしても受け取り可能で後から確認することができるのは利点だと思う。
その裏側では、タイムラグがある分だけ返信に時間をかけることも可能。
ということは、気を使いすぎる人にとっては非常に疲れる作業になったりすることが多いのではないかと思う。
「こんな言い回しだと、ちょっと誤解するかな」「こんな書き方したら傷つくかな、怒らせるかな」
常にそんなふうに気を使ってるんじゃ脳内も疲れて当然。
なぜ自分がそんなにも気をつかいすぎるのか、おおよその理由はわかっている。
自分も相手には多少なりとも気を使ってor 気にかけてor構ってほしいからだ。
さらに言えば、自分が傷つきたくない気持ちが大きすぎるからなのだろう。
人間なんだから、当たり前の感情ではある。好き好んで傷つきたいなんて人はいないだろうと思う。
傷つきたくない気持ちが大きすぎると、自分を守りにはいる。
他人にたいして、気を使いすぎてしまうのだ。
幼少のころからの家庭環境。
何を話しても否定のリアクションをされ、常に親の顔色を伺うようになった。
当たり障りのない話ならできるが、日常のこと、友達のことを話すにも顔色を伺い
特に自分の心の中の気持ちなどは話さないようになった。
うれしいことがあっても「それは〜(否定・非難・禁止)だからやめなさい」
と言われ続けたんじゃ、何も話さなくなるってば。
とはいえ、そんな幼少のころの体験は、もはや変えることのできない過去のこと。
いくら囚われていても何も変わらないし進まない。
否定や禁止をされ続け、気付いたら人の顔色を伺うようになってしまったことは事実。
でも。
今の自分を変えることができるのは、親ではなく自分自身しかいないのだ。
周りからヒントを得ることはできても、行動するのも、変わるのも自分自身。
それを乗り越えられたら、すこし成長なのだろう。
すぐには到底無理だが。
辛い思い、苦しい思いをしてきた人は、他人に優しくなれる。それは事実。
なぜなら、誰かが苦しい思いをしているとき、同じ苦しみではなくとも
苦しい体験をしたことがあれば、その誰かが心を痛めてる状態が辛い、という事実を
受け容れてあげることはできるのだから。
相手の気持ちをわかる、なんて簡単には言えない。
だって自分は相手ではないのだから。
たいして共感することでもないのに、軽々しく「わかる!」なんて言ってしまえば
「あんたにあたしの何がわかるのさ?」となるのは明らかだ。
似たような体験をしたことがあれば、共感することもできるだろう。全部でないにしても。
そうでない場合。体験したことがなくて共感できないときもたくさんある。
そんなときは、”相手が今、辛い思いをしている事実”を受け容れてあげたい。
Aさん「○○が××で辛いんだ」
にたいして
Bさん「そんなのの何が辛いの?」
なんてのはナンセンス。
なぜなら、AさんはBさんではないのだから。
Bさんに置き換えたら、痛くもかゆくもないことであっても、辛いのはAさんなのだ。
だから、Aさんが今辛い、という事実を
「そうか、辛いんだね」と
そのまま受け容れるだけ。
これでどんなに心が救われるだろう、、、
人間だもの、誰だって自分(の感情)を受け容れて欲しいと思う気持ちは持っているであろう。
「それはちょっとどうかな?」と、首をかしげたくなることがあったとしても
言いたいことはまず「そうなんだね」と受け容れてからにしたい。
なぜ?
自分がそうされたいから。受け容れてもらいたいから。
自分に余裕がなかったり、いらいらしていたりするとできないことも多いのだが。
自分がそうしてほしければ、まずは自分からやってみる。
裏からみると、自分が相手にしてる対応って自分がそうしてほしいと思う対応だったりする。
鏡の法則、だね。
なんだかものすごく脱線というか一人で語りにはいってしまった。
なんかすこしはすっきりしたのでいいか。
誰かに聞いて欲しかったんだな、自分。
さみしいんだ。なんかちょっと。
こんなの最後まで読んでくれた人がいたらありがとう。
*****
本当に大切に思う数少ない人だけにしよう。
でも、自分がいっぱいいっぱいなのに、大切な人が辛そうだと放っておけないのは、単なる性分なのだろうか。
その辺が制御できないのはどうしたらいいんだろう。
****
メールとかSNSに疲れました。
伝えたいことが何も伝わらないし、タイムラグのありすぎる文字のやりとりなんて
感情の伴わない事務的な連絡くらいしか役に立たないんじゃないか?
ダイレクトにかつリアルタイムに話ができていれば、スルーされたくない言葉をスルーされ(そうになっ)てもそこで訊くことができるけれど
単なる文字で問い掛けたって、意図的じゃなくたってスルーされやすい。
スルーされる、というと語弊があるな、、回答しわすれがち、といったほうがマシかな。
被害妄想なのか、気分が浮かないときは意図的でないにしても「スルーされた!」と感じてしまうことが多いのだ。それほどたいした事柄でなかったとしても。
・・メールの文字だけのやりとりは、たとえば相手が電車内だったり運転中だとしても受け取り可能で後から確認することができるのは利点だと思う。
その裏側では、タイムラグがある分だけ返信に時間をかけることも可能。
ということは、気を使いすぎる人にとっては非常に疲れる作業になったりすることが多いのではないかと思う。
「こんな言い回しだと、ちょっと誤解するかな」「こんな書き方したら傷つくかな、怒らせるかな」
常にそんなふうに気を使ってるんじゃ脳内も疲れて当然。
なぜ自分がそんなにも気をつかいすぎるのか、おおよその理由はわかっている。
自分も相手には多少なりとも気を使ってor 気にかけてor構ってほしいからだ。
さらに言えば、自分が傷つきたくない気持ちが大きすぎるからなのだろう。
人間なんだから、当たり前の感情ではある。好き好んで傷つきたいなんて人はいないだろうと思う。
傷つきたくない気持ちが大きすぎると、自分を守りにはいる。
他人にたいして、気を使いすぎてしまうのだ。
幼少のころからの家庭環境。
何を話しても否定のリアクションをされ、常に親の顔色を伺うようになった。
当たり障りのない話ならできるが、日常のこと、友達のことを話すにも顔色を伺い
特に自分の心の中の気持ちなどは話さないようになった。
うれしいことがあっても「それは〜(否定・非難・禁止)だからやめなさい」
と言われ続けたんじゃ、何も話さなくなるってば。
とはいえ、そんな幼少のころの体験は、もはや変えることのできない過去のこと。
いくら囚われていても何も変わらないし進まない。
否定や禁止をされ続け、気付いたら人の顔色を伺うようになってしまったことは事実。
でも。
今の自分を変えることができるのは、親ではなく自分自身しかいないのだ。
周りからヒントを得ることはできても、行動するのも、変わるのも自分自身。
それを乗り越えられたら、すこし成長なのだろう。
すぐには到底無理だが。
辛い思い、苦しい思いをしてきた人は、他人に優しくなれる。それは事実。
なぜなら、誰かが苦しい思いをしているとき、同じ苦しみではなくとも
苦しい体験をしたことがあれば、その誰かが心を痛めてる状態が辛い、という事実を
受け容れてあげることはできるのだから。
相手の気持ちをわかる、なんて簡単には言えない。
だって自分は相手ではないのだから。
たいして共感することでもないのに、軽々しく「わかる!」なんて言ってしまえば
「あんたにあたしの何がわかるのさ?」となるのは明らかだ。
似たような体験をしたことがあれば、共感することもできるだろう。全部でないにしても。
そうでない場合。体験したことがなくて共感できないときもたくさんある。
そんなときは、”相手が今、辛い思いをしている事実”を受け容れてあげたい。
Aさん「○○が××で辛いんだ」
にたいして
Bさん「そんなのの何が辛いの?」
なんてのはナンセンス。
なぜなら、AさんはBさんではないのだから。
Bさんに置き換えたら、痛くもかゆくもないことであっても、辛いのはAさんなのだ。
だから、Aさんが今辛い、という事実を
「そうか、辛いんだね」と
そのまま受け容れるだけ。
これでどんなに心が救われるだろう、、、
人間だもの、誰だって自分(の感情)を受け容れて欲しいと思う気持ちは持っているであろう。
「それはちょっとどうかな?」と、首をかしげたくなることがあったとしても
言いたいことはまず「そうなんだね」と受け容れてからにしたい。
なぜ?
自分がそうされたいから。受け容れてもらいたいから。
自分に余裕がなかったり、いらいらしていたりするとできないことも多いのだが。
自分がそうしてほしければ、まずは自分からやってみる。
裏からみると、自分が相手にしてる対応って自分がそうしてほしいと思う対応だったりする。
鏡の法則、だね。
なんだかものすごく脱線というか一人で語りにはいってしまった。
なんかすこしはすっきりしたのでいいか。
誰かに聞いて欲しかったんだな、自分。
さみしいんだ。なんかちょっと。
こんなの最後まで読んでくれた人がいたらありがとう。
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